N.Y.のライフスタイルや流行&カルチャーなど、いち早くキャッチしそして日本に紹介してきたKAZ&FRAN の活動軌跡!
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【WILD STYLE】
日本のヒップ・ホップ・ムーブメントの先駆け的バイブル映画。公開当時、まだアメリカにおいてもアンダー・グラウンドな存在として位置付けされていたヒップ・ホップ。しかしそのダイナミックでシンプル、ストレートでかつ繊細なヒップ・ホップ・ムーブメントに着眼。単なる流行にとどまらず国境を越え必ず日本でもひとつの新しいカルチャーとしてムーブメントが起こるという信念のもといち早く作品として、そしてカルチャーとして日本に紹介しました。その後の日本でのヒップ・ホップ・カルチャーの台頭は・・・いわずもがなです!

ドブネズミゲットーと若者たち text by Kaz Kuzui

以下、1983年10月10日発行『ワイルド・スタイルで行こう』(カズ葛井著 JICC出版局発行)より
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僕が小さい頃落書きを仲間とした。落書きをしている時、自分の落書きは人と変わっていたいと思った。人にすげえなあと思わせたかった。自分の名前は書かなかったけど、その頃はやった、赤胴鈴之助とかダルマ君の似顔絵や名を自分のタグとして使った。

学校で描かされた絵は好きではなかったけど、賞などもらったことがあった。今の東京はグラフィティがない街だ。何故なんだろう。子供は、若者はどういう方法で自分のフラストレーションと自己表示欲を解消するのだろう。暴力と無気力…。サウス・ブロンクス。三年前、ある映画のロケハンで2週間程うろついた。その時、出会った若者達は豊かでない現実なんかクソくらえって感じで、グラフィティをあちこちに描いていた。その強烈なカラーとシンプルなメッセージ、ストリートでは大きなラジカセを置いて子供たちがブレイキングしていた。若者達は礼儀正しかった。両親思いだった。素直だった。僕のサウスブロンクスのイメージは全部ひっくり返った。何かが起きつつあった。

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それからしばらくサウスブロンクスのことは忘れた。そして今年のモダンミュージアム主催の新人監督映画祭でチャーリー・エイハンの『ワイルド・スタイル』に出会った。なつかしかった。見事にサウスブロンクスの若者達のエネルギーとその状況を描いている。サウスブロンクスのアメリカン・グラフィティだった。大映インターナショナルの金丸社長がそのふき出てくるエネルギーが気に入って配給することを決断。
それから、僕はこの映画の日本のおけるプロモーションのため、チャーリーと一緒にプランニングを練って、日本とニューヨークを往復した。そして、25名のストリートアーティスト達が来日することに決定した。

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『ウェストサイドストーリー』のプエルトリカン、黒人の若者達は、今や、ナイフを持つかわりにスプレー缶で、暴力で強さを示すかわりブレイキングダンスとラップで自己顕示する。時代は変わっているのだ。そしてヒップホップがポップアートとして市民権を得るや、数々のスターが誕生していくのだ。それも自分の隣の奴がスターになっていくいのだ。誰もが希望をもち始め、サウスブロンクスはヒップ・ホップで塗りつぶされ、若者達はそのあまりあるエネルギーを自分達の肉体を通して自分の可能性を追及し始めたのだ。そして、自分の自己表現のために出発したそのアートも市民権を得ていくうちに、その自分の創り上げたアートスタイルを通して楽しみを人と分かち合うことを覚えていくようになる…。

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そんな若者達の生きざまを彼らの声とヴィジュアルなもので紹介しようとしたのがこの本を創った動機です。特にこの本と映画は、本とか映画をあんまり読んだり、観たりもしない「はぐれた」連中に読んでみてもらいたいとサウスブロンクスの連中はいっています。そんな若者達を取材していたある日のFUNギャラリーで、グラフィティアーティストの写真を撮っている、スティービーというキャメラマンに写真を撮ってもらって、でき上がった写真を見たらあたかもスティービーが撮っている、グラフィティアーティストの一人であった。ここ4、5ヶ月、彼等と付き合っているうちに影響された部分も多分にあるし、又彼等のもっているエネルギーは自分のものと共通するし、それがスティービーの撮った自分の写真に表われていた。それで、スティービーに言った。これほど自分がそのまま表われた写真を撮ってくれた写真家はいなかった。そうしたらスティービーは言った。「いや、カズはもうヒップ・ホップの一人だからさ。名前もカズィ・カズ、K・Kカズとヒップ・ホップ名に変えた方がいいよ」と。

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金曜日の夜明け前の4時サウスブロンクスの彼等のディスコクラブ『T・コネクション』(212 WAITE PLATE ROAD)では、グランド・ウィザード・セオドアと300人の若者が、ファンタスティック・フリークのラップとロックステディのブレイキングに合わせ、ヒップ・ホップしている。
マンハッタンの42ストリートから17駅先のこのサウスブロンクスは今まさにニューヨークの最高にビートしているところ、ビートに合わせ300人から400人の声がガンガン響いている。

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今、まさにブロンクスのその荒廃したイメージはその若者達が彼等の生活のなかから創り出した独特のスタイル『グラフィティ(落書き)、ラップミュージック、ブレイキングダンス』、人よんでヒップ・ホップカルチャーによって、生き生きと活力あるイメージに塗り変えられている。
ブロンクスとブルックリンの黒人とプエルトリカンのティーンエージャーたちによって花開いた新しい大衆文化、ストリート文化は、マンハッタンの路上に、ディスコに進出していく。それまでブロンクスのいくつかのディスコクラブで行われたパーティから流れてきたラッパー達、ブレイキングダンサー達、グラフィティアーティスト達が、マンハッタンのウェストサイドの18丁目にあるローラーディスコ『ロキシー』で毎週金曜日にそのヒップ・ホップスタイルを見せるようになって来た。毎週金曜、二千人から三千人のヒップ・ホップにフィーバーしている。

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サウスブロンクスの路上で見られるブレイキングダンスやラップミュージックは、大きなラジカセを路上に並べて、今までにない強いビートで踊りまくる。そしてあちこちにある大きな壁に、まるで現代の壁画といった風にスプレーでグラフィティを描きつづけるサウスブロンクスの若者達、そして日常語り合う、その会話にリズムが加わって創り出したミュージック、ラップ、失業と産児制限に関わる話題を語ったものや、女の子、車、お金、などの夢を語ったものや、朝起きて歯をみがいて、何とか…とただ日常の生活をそのまま語ったもの等、彼等の生活を生に表現する。

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今まで、非行、犯罪に走りがちだった、どちらかというと低所得者家庭の若者達がその若さというすばらしいエネルギーを自己表現する手段を見つけ、一つのファミリー的団結力を生んできている、今まではガラの悪いゴロツキたちのたまり場であったサウスブロンクスの若者が、ブレイキングダンス、ラップ、グラフィティをすることによって一つの活力の場を得、現実のネガティブな部分をふきとばし、ポジティブにしていくのだ!

WILD STYLE 作品紹介

ストーリー

1982年、ニューヨーク、サウス・ブロンクス。
グラフィティ・アーティストのレイ(リー・キュノネス)は夜中に地下鉄の操車場に忍び込み、スプレーを使って地下鉄に大胆でユニークなグラフィティを描いている。もちろん不法行為だから見つかれば終わり。アンダーグラウンドの世界から派手な表舞台に送り出そうとするマスコミ関係者や社交界の土産の誘いに彼は悩む。仕事としての依頼を受けて描くのではなく、自由にそして反体制の精神で書くこと-正にワイルド-が彼にとって重要なのだ。

スタッフ

監督・製作/脚本:チャーリー・エイハン
音楽:フレッド・ブラスウェイト、クリス・ステイン
撮影:クライブ・デヴィッドソン

チャーリー・エイハン

1951年、ニューヨーク、ビンガントン生まれ。
アーティストとして1973年以後、ニューヨーク市で絵画活動をする。1975年、実験的ドキュメンタリー映画を製作。1977年ニューヨーク市近代美術館シネローブで上映。1977年、もっと広い方法の映画製作へのアプローチを始める。近隣のハウジング・プロジェクトに住む人々と協力して、彼等の経験をもとに映画製作。この時期にグラフィティとストリートカルチャーに出会う。これが後に『ワイルド。スタイル』へ発展していく。
『ワイルド・スタイル』は、アップタウンとダウンタウンの風景のエレクトリックな組み合わせも見せている。
主な作品としては、「パール街のブルックリン橋」16m/m、45分、1979年制作。
「デッドリーアート オブ サバイバル」スーパー8、75分、がある。

フレッド・ブラスウェイト

又の名をファブ・ファイブ・フレディ。
ユニークなパーソナリティの持ち主。グラフィティアーティストとしても有名。彼のグラフィティアートとしての地下鉄のキャンベル缶は非常に評価が高い。又ラップミュージシャンとして彼の歌った"チェンジ・ザ・ビート"は、A面を英語で、B面をフランスの歌手がフランス語で同じ曲を歌って好評。又、サウスブロンクスのストリートカルチャー、ヒップホップを世に知らしめた彼の功績は大きい。
映画『ワイルド・スタイル』の音楽監督をつとめ、又、ディスコのオーナーとして出演している。

キャスト

レイモンド"ゾロ"/リー・ジョージ・キノネス
フェイド/フレッド・ブラスウェイト
ローズ"レディバック"/サンドラ・ピンク・ファバラ
バージニア/バティ・アスター

リー・ジョージ・キノネス

最大の地下鉄画家として以前より有名。リーのハンドボールコートの記念的壁画は世界中の写真家の賛美を浴びている。

サンドラ・ピンク・ファバラ

(当時)17歳の高校生。彼女のたおやかな美しさは、ニューヨークの女性グラフィティアーティストの中でもピカイチ。ピンクの絵はニューヨーク市のいたるところのギャラリー展示されている。

バティ・アスター

1977年、故ニコラス・レイにリー・ストラスブルグスタジオで映画技術を学ぶ。その後、12本を越すアンダーグラウンドシネマに出演。ニューシネマのスタートしての名声を得る。

サウス・ブロンクス
「8、9才の頃から毎日地下鉄のヤードにいって落書きスプレーしてた。なぜって、理由はないさ。そこへ行きゃ仲間がいるし、地下鉄の見廻り人や警官の目を盗んで落書きするスリルは最高だから。互いに落書きで競い合うのは自分の技を上げるのに役立つし、いいものを書けば皆んながあがめてくれる。王冠の上に自分の名前を書くときは最高にいい気分さ、こっちのほうが安全で気分がいいよ。それがブロンクスに住む俺達の仲間意識になっていくんだ。」
グラフィティアーティスト ドンディ
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「小さい頃からプロフェッショナルのBボーイ(ブレイキングダンサー)になりたかった。ストリートでダンボールの箱を分解して仲間と練習したんだ。最初はおふくろが心配したけど、俺がちゃんとした訓練をしているのを見せてダイナミックなイカスダンスを見せたら好きになったよ。シェイプアップするため健康食をとったり、走ったりして体をキタエているんだ。ブレイキングってのは自分のスタイルを創り出すことだからね。他のブレイクするグループと競い合うから最近ハイテクニックな技が出てきたね。毎日、2時間仲間と一緒に練習するのが楽しみなんだ。仲間意識が強いっていうのかな。ブロンクスって楽しいところだよ。」
ブレイキングダンスグループ
『ロック・ステディ・クルー』のケニィ